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2024-02

古写真・津空襲による百五銀行付近の被害状況(昭和20年7月28日)

津市空襲百五銀行001
昭和20年に入ると、大都市だけでなく地方都市も空襲の被害を受けるようになりました。
三重県津市も激しい空襲の被害を受けた都市で、昭和20年3月12日の初空襲から昭和20年7月28日まで計7回の空襲を受けました。
特に最後の空襲となった昭和20年7月28日の空襲は、市街地のほぼすべてが壊滅するほどの被害を受けました。
この写真は、昭和20年7月28日の津空襲の直後に撮影されたものと思われるもので、奥に見えるビルは百五銀行の本店の建物でした。
百五銀行本店は大正13年に岩田橋のたもとに建てられた銀行で、設計は清水組。古典様式の立派なビルで、ランドマークと言える建物でした。※清水建設HPの百五銀行本店
百五銀行の前の道路は現在の国道23号線。当時から防火帯も兼ねたと思われる広い道ですが、左側の市街地は灰燼に帰しています。
百五銀行本店は空襲で1階と地下以外を焼失しましたが、戦後も修復され使用され続けました。しかし、昭和46年に建て替えられました。

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古写真・津空襲による津観音付近の被害状況(昭和20年7月28日)
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古絵葉書・青森 歩兵第五連隊

青森第5連隊001
青森市にあった歩兵第五連隊は、明治10年に設立。西南戦争や日清戦争に参戦しました。
明治35年1月24日、日露戦争での冬季戦闘を想定した八甲田山での雪中行軍により中隊規模の将兵のほぼ全員、199名の犠牲者を出す「八甲田山雪中行軍遭難事件」が起こります。
この絵葉書は八甲田山雪中行軍日遭難事件が発生して約4年半後の消印が押されています。
青森第5連隊002
正門の看板と歩哨。雪中行軍遭難事件後、犠牲となった将兵が隊列を成して帰営する姿を見たという噂も流れました。
歩兵第五連隊は昭和7年に再び八甲田山雪中行軍を行いましたが、こちらは無事八甲田山の踏破に成功し帰営しています。
戦後、歩兵第五連隊の跡地は青森高校の敷地となりましたが、青森市にはかつての歩兵第五連隊と同じ連隊番号を付す陸上自衛隊第5普通科連隊が駐屯し、毎年冬季に八甲田山にて雪中演習を行っています。

古写真・三重海軍航空隊集合写真2枚(昭和19年8月1日~昭和20年8月15日)

三重海軍航空隊ブログ用1
※サムネイルの画像のクリックで拡大します。
三重海軍航空隊で撮影された予備生徒と教官の集合写真です。三重海軍航空隊は昭和17年8月1日に三重県津市香良洲町にて編成。香良洲飛行場を利用した予科練教育を行いました。
この古写真は三重海軍航空隊の予備学生だったA氏の旧蔵品ということが分かっており、また教官兼分隊長であった白石大尉と館石大尉が写っていることから、三重海軍航空隊で撮影された写真であることが判明しております。さらに、いつもお世話になっておりますブログ「大日本者神國也」の盡忠報國さまに鑑定を依頼、背後に写るそれぞれの建物も判明しました。
まずは1枚目の写真ですが、背後の建物は講堂であるとのことです。(講堂は複数あるためどの講堂かは不明)。
三重海軍航空隊教官
※サムネイルの画像のクリックで拡大します。
前列中央に写る三重海軍航空隊の教官たち。左から2人目が館石大尉と思われます。
※参照・海軍陸戦隊史保存会


三重海軍航空隊ブログ用2
※サムネイルの画像のクリックで拡大します。
2枚目の集合写真。まわし姿の予備学生と教官の集合写真です。
三重海軍航空隊教官2
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
教官の前に座る生徒が賞状らしきものを持っており、分隊対抗による相撲の大会での優勝記念か何かの記念写真と思われます。
向かって左側の教官が館石大尉、向かって右側が白石大尉と思われます。盡忠報國さまによれば、館石大尉と白石大尉が三重海軍航空隊の教官をしていた時期は、昭和19年8月1日から終戦までということで、撮影時期もその期間と判定しました。
三重海軍航空隊屋根のマーク
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
背後の建物の棟瓦には海軍の錨のマークがあります。この背後に写る建物ですが、盡忠報國さまの見解および提供していただいた「三重海軍航空隊史」の配置図により、角力場と剣道場と判明しました。
三重海軍航空隊配置図
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
「三重海軍航空隊史」より配置図。
赤く囲んだ場所が角力場。背後の建物は写真の位置関係により剣道場と思われます。
海軍では相撲の競技も体格を作る重要な訓練として盛んにおこなわれていたそうです。

三重海軍航空隊の敷地は現在、工場や住宅地、太陽光発電施設となり建物はもちろん基礎などの遺構自体が完全に消滅し、また
当時の写真もほとんど残されておらず、2枚の古写真に写る講堂や角力場・剣道場は、今回その姿が初めて確認された資料とのことです。

古写真・津空襲による津観音付近の被害状況(昭和20年7月28日)

津空襲津観音001
昭和20年に入ると、大都市だけでなく地方都市も空襲の被害を受けるようになりました。
三重県津市も激しい空襲の被害を受けた都市で、昭和20年3月12日の初空襲から昭和20年7月28日まで計7回の空襲を受けました。
特に最後の空襲となった昭和20年7月28日の空襲は、市街地のほぼすべてが壊滅するほどの被害を受けました。
この写真は、昭和20年7月28日の津空襲の直後に撮影されたものと思われるもので、焼け跡の瓦礫が片付けられずまだそのままになっています。
中央やや右寄りに残された像は、津観音と呼ばれた観音寺大宝院の地蔵菩薩坐像。津観音は奈良時代創建と言われる古刹で、戦前までは室町時代や桃山時代の貴重な文化財の堂宇が並ぶ寺院でしたが、空襲により悉く焼失。この銅製の地蔵菩薩坐像のみが残されました。津観音は戦後に復興しましたが、この焼け残った地蔵菩薩坐像は戦争の惨禍を伝える語り部として、現在も同じ位置に座り続けています。

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古写真・津空襲による百五銀行付近の被害状況(昭和20年7月28日)

古絵葉書・京都府立医科大学花園分院

京都府立医科大学花園分院001
大正11年、京都府立医科大学は京都市北区大将軍鷹司町に分院として花園分院を開設しました。
装飾の少ないモダンな外観の建物は、いかにも大正期らしい洋館です。
現在はこの洋館はありませんが、京都府立医科大学花園学舎として受け継がれています。
※参照・京都府立医科大学略年表

古絵葉書・京都陸軍病院(13枚組)

京都陸軍病院001
明治40年、京都市伏見区深草の地に陸軍の病院である京都衛戍病院が開院しました。昭和11年、京都衛戍病院は京都陸軍病院と
改称します。この絵葉書は京都陸軍病院に改称した後の13枚セットの記念絵葉書です。
中の絵葉書は続きを読むからご覧ください。

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古絵葉書・奄美大島要塞司令部

奄美大島要塞司令部ブログ用004
奄美大島要塞は大島海峡防衛のため、大正8年より着工され、大正11年のワシントン海軍軍縮会議により砲台設置工事は一旦中止されたものの、要塞建設自体は続けられ、大正12年に瀬戸内町古仁屋に奄美大島要塞司令部は開庁しました。
この古絵葉書は奄美大島要塞司令部の正門と庁舎を撮影した絵葉書です。
奄美大島要塞司令部は庁舎の他に兵舎や官舎、奄美大島重砲兵連隊などがありました。
(瀬戸内町教育委員会「瀬戸内町内の遺跡2」)
奄美大島要塞司令部002
奄美大島要塞司令部の看板。
奄美大島要塞司令部003
反対側の門柱には、古仁屋憲兵分駐所の看板が掲げられています。「瀬戸内町内の遺跡2」では、古仁屋憲兵分駐所は昭和16年に現在の奄美大島信用金庫の辺りに設置したとありますが、古仁屋憲兵分駐所は元々は奄美大島要塞司令部の敷地内にあったようです。
奄美大島要塞司令部長官舎ブログ用002
奄美大島要塞司令部の西端には、要塞司令官の官舎がありました。この絵葉書は以前記事にしたものです。
奄美大島要塞司令部は昭和19年5月に沖縄の第32軍の指揮下となり閉庁しました。奄美大島要塞司令部の跡地は現在、古仁屋高校の敷地となっており、コンクリートの塀の一部が現存するのみとなっています。

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古絵葉書・奄美大島要塞司令部司令官舎

古絵葉書・船岡山公園(昭和10年11月1日開園 現存するすべり台・休憩所が写る。)

船岡山公園古絵葉書ブログ用
京都市北区にある船岡山は室町時代には応仁の乱の西軍の本陣として船岡山城が築かれ、明治時代には織田信長を祭神とする建勲神社が創建されるなど京都市内の名勝として知られる丘ですが、京都市による都市公園整備として、昭和10年11月1日に船岡山公園が開園しました。近代都市公園として開園した船岡山公園は、壁泉やラジオ塔など多くの設備が造られ、それらの多くが今でも残されれている近代化遺産の宝庫である公園であり、昭和初期の近代都市公園の様子を知る貴重な存在となっています。
この絵葉書は開園を記念して発行された絵葉書と思われ、今の広場部分を撮影したものですが、そこに一部だけ写るすべり台が、ブログ主による現地での調査により、今も現存するすべり台の可能性が高いと判明しました。
1船岡山公園
現在の船岡山公園の広場。絵葉書とほぼ同じアングルで撮影。
2船岡山公園すべり台
これが、現存のすべり台。このすべり台の骨組みや階段や支柱はリベット打ちで、京都市内の他の古いすべり台でも見られないもので、戦前の特徴が表れています。また、唯一写るすべり台の下部のリベットの位置を現在のすべり台と比較したところ、一致したため、絵葉書に写るすべり台そのものと判明しました。
その結果、京都市内でも数少ない戦前からの遊具、そして京都市内で最古の可能性があるすべり台の可能性があり、近代化遺産としても非常に貴重なものと思われます。
この船岡山公園に現存する昭和10年の開園当初の滑り台についてのの詳細な記事は、私の別ブログにて紹介しております。

船岡山公園に現存する昭和10年頃のすべり台(京都市内で現存最古か)

12船岡山公園休憩所
絵葉書に写る休憩所はほぼ当時のまま残されています。
15船岡山公園休憩所
休憩所の人造石研ぎ出しのベンチも当時のまま。90年前とは思えないモダンなデザインです。

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船岡山公園に残る近代化遺産

冊子・ラジオ体操図解(昭和11年)

今でも夏休みの小学生の朝の日課や、職場や現場での朝礼前に行われるラジオ体操。日本人にとっては誰しもやったことのある馴染み深い体操ですが、そのラジオ体操が初めて行われたのが昭和3年。昭和天皇即位の大礼を記念して逓信省簡易保険局が「国民保険体操」として制定したのが始まりでした。
、昭和4年に日本放送協会(現・NHK)がラジオにより全国放送を開始。以後、国民の心身の鍛錬、普及のため全国的に知られるようになりました。この冊子は、昭和11年の発行されたラジオ体操の図解です。
ラジオ体操表ブログ用
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
表面のラジオ体操第一図解。
上にラジオ体操の効果を説明し、下に体操の図解。右端にラジオ体操の歌が書かれています。
現在ではラジオ体操は朝に行うのが通常ですが、戦前は食後以外ならいつでもいいと勧めています。
ラジオ体操の歌は昭和31年に制作された3代目で、現在のものとは異なっています。また、体操の動作も現在のとは異なっていますね。
ラジオ体操裏ブログ用
裏面のラジオ体操第二。こちらも現在のとは大きく異なっています。
というのも、ラジオ体操は国民の心身を鍛錬し、兵隊や勤労奉仕など国に尽くすためのプロパガンダ的なものとして、GHQに目を付けられ、昭和21年に放送禁止となりました。ラジオ体操が復活したのは昭和26年。戦前のラジオ体操とは異なる動作や歌を新たに制定して放送。そして現在に至ります。


こちらに当時のラジオ体操をする人々の映像があります。

ラジオ塔
さて、ラジオ体操を語るにあたって、ラジオ塔の存在が欠かせません。
ラジオ塔は当時高価だったラジオの普及を目的として、日本放送協会が全国各地の公園などに設置した街頭ラジオです。
かつては200基以上設置されたラジオ塔、このラジオ塔こそがラジオ体操とラジオの普及に一役買っていました。朝になると公園のラジオ塔の前に人々が集まり、ラジオ体操を行い、昼には演芸や野球中継を楽しんだようです。
しかし、戦後は忘れ去られた存在になり多くが撤去されたため、現存数は37基とかなり少なくなっています。

ただ、最近は近代化遺産としてのラジオ塔の価値が見直され、レトロブームもあり、保存されるようになっただけでなく、写真の京都市の船岡山公園にあるラジオ塔のように、再び新しい受信機とスピーカーをかつてのラジオ塔に設置し、復活したラジオ塔から流れるラジオ体操の曲に合わせて体操をする人達の光景が見られるようになりました。

古写真・石川県金沢病院(明治12年~明治17年頃撮影)

石川県金沢病院001
石川県金沢病院は明治9年に創立した公立の病院で、明治12年に現在のNHK金沢放送局の辺りに新築落成しました。
明治17年には石川県甲種医学校となり、明治20年には第四高等中学校医学部に移管されます。
石川県金沢病院002
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
門柱に掲げられた看板には、「石川県金沢病院」と書かれており、新築落成した明治12年から石川県甲種医学校となる明治17年の間の撮影と思われます。
その後、金沢医学専門学校、金沢医科大学と変遷し、戦後に金沢大学医学部として現在に至ります。

古写真・加茂駅 (昭和24年春 撮影)

加茂駅005
現在の京都府木津川市にあるJR加茂駅は、明治30年に関西鉄道の駅として開業しました。明治40年に国有化。関西本線となり、戦後の国鉄民営化を経て現在に至ります。
この古写真の駅舎は昭和24年春に撮影されたものですが、駅舎は明治30年の開業以来のものと思われる昔懐かしい木造駅舎です。
加茂駅002
写真裏の書き込み。写真は本のしおりの形に加工され、撮影者であろう手描きの撮影年が書かれています。
加茂駅003
駅舎入り口前に置かれた看板。12月1日より急行列車が加茂駅に停車するとの告知のようです。
加茂駅004
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
駅前に置かれた食堂の看板。上等とんかつ・代用中華そば・おでん・洋食と大衆食堂では定番のメニューが書かれていますが、代用中華そばとは何でしょう。中華そばの麺を細麺のうどんとかにしたものでしょうか。
肝心の店名ですが、メニューの下には「皆様の食堂」という文字しかなく、具体的な店名が分かりません。
ちなみに現在のJR加茂駅の駅前には食堂は無いようです。

加茂駅は1999年に現在の駅舎へと建て替えられました。

古絵葉書・福知山市 明治40年の水害(4枚)

福知山水害001
明治40年8月23日の午後から降り出した雨は26日まで降り続き、由良川の堤防が決壊し、福知山の市街地は水没しました。この絵葉書はその水害の惨状を伝えた絵葉書です。1枚目は現在の福知山城跡の丘から北方向を眺めた内記町1丁目の様子。右上のお寺の屋根は明覚寺。手前の敷地は現在、足立音衛門本店となっている旧松村家家住宅と京都地方法務局福知山支局となっています。
福知山水害002
2枚目は北西方向の新町あたりの様子。流された建物が散見され、所々に臨時の救護所らしいテントが見られます。
福知山水害003
1枚目の内記町1丁目の惨状を接写した様子。建物の構造か流れによるものか分かりませんが、中央から左の部分は建物が全て失われているのに対し、右端の建物群は無事です。
福知山水害004
裁判所前で炊き出しを受ける被災者。奥に建つ和風の建物が裁判所です。実はこの絵葉書には貴重な情報が写されています。
福知山水害005
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
背後の小高い丘に建つ白い建物。これはかつての福知山城二の丸にあった銅門番所の櫓です。現在は福知山城天守の前の本丸跡に移築されていますが、この絵葉書はまだ削平前の二の丸が写り、移築前の銅門番所が写されています。
福知山城二の丸の台地は明治後は公園になっていましたが、この後すぐに削平が開始。大正期には完全に失われ、現在では二の丸台地の麓にあった石垣の一部が残るのみです。二の丸台地が削平されたことにより福知山城の主要部の縄張りが大きく失われたのが惜しいです。

以下は以前入手し記事にした明治40年の水害の絵葉書です。恐らく今回入手した絵葉書とセットだったと思われます。
福知山水害の惨状001
惇明小学校付近の様子。石垣の上にあったためか被害を免れています。
福知山水害の惨状002
呉服町の様子。右の石垣の上に建つ屋敷は無事。やはりわずかな高低差で命運が分かれたようです。
福知山水害の惨状003
現在の内記町5丁目の有馬邸の様子。屋敷は無事ですが、流されてきた材木が引っかかる被害を受けています。

※関連記事
古絵葉書・福知山 水害の惨状3枚(明治40年水害)

古絵葉書・陸軍第十五師団司令部庁舎

第十五師団司令部001
陸軍第十五師団は明治38年に現在の豊橋市にて編成されました。師団司令部庁舎は明治41年に完成。師団設置とともに周辺に歩兵連隊・砲兵連隊・騎兵連隊・工兵大隊・輜重兵大隊・衛戍病院・憲兵隊などが編成されました。
この絵葉書は師団司令部庁舎完成間もないころの撮影と思われます。
しかし、大正14年の宇垣軍縮により第十五師団は廃止となり、跡地は昭和2年に豊橋陸軍教導学校となりました。
さらに昭和13年に陸軍予備士官学校となり終戦を迎えます。

15第15師団庁舎
現在、第十五師団司令部~陸軍予備士官学校の敷地は愛知大学のキャンパスとなっています。
第十五師団司令部庁舎は現存し、記念館として使用されています。
17第15師団庁舎
公開日は平日となりますが、一般でも内部の見学が可能です。この日は入れませんでした。

※豊橋市の旧軍遺構を探索した際の別ブログの記事です。
豊橋市・第十五師団(豊橋陸軍教導学校・陸軍予備士官学校)・周辺陸軍施設探索日記

古絵葉書・工兵第十大隊 大隊本部及兵舎・酒保及下士集会所

工兵第十大隊002
陸軍工兵第十大隊は明治31年に福知山市にて編成された部隊です。同年大阪より移駐した陸軍歩兵第20連隊の近くに新設された兵は地元の土木企業、松村雄吉により建てられました。絵葉書は大正期くらいと思われる写真です。
工兵第十大隊003
酒保及下士集会所。酒保は軍隊内の売店。下士官の集会所と一緒だったようです。
工兵第十大隊
以前記事にした工兵第十大隊の古絵葉書。工兵第十大隊の古絵葉書は正門からの写真は多いですが、大隊本部や兵舎を写したものはあまり見ないですね。酒保の写真も始めて見ました。
14工兵第十大隊兵舎
工兵第十大隊は大正14年の宇垣軍縮により岡山に移駐。残された施設は第四師団の演習廠舎として終戦まで使用。
終戦後は福知山商業学校(現・福知山成美高校)が使用し現在に至ります。校内には部分保存された兵舎といくつかの当時の建物や門柱が残されています。
実は私が中学生のころまだ大隊本部と兵舎が残されていて、高校受験は大隊本部の建物で受けました。
今から思うと貴重な体験ですが、当時は興味が無かったため、今から思うと写真だけでも残しておけばと悔やむばかりです。
15工兵第十大隊境界石
旧工兵第十大隊の敷地だった福知山成美高校の背後の山には、今でも工兵第十大隊時代の敷地境界杭である石製の「陸軍省所轄地」の境界杭が何本か残されています。

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古絵葉書・福知山工兵第十大隊

冊子・呉海軍工廠 福浦工員宿舎(昭和18年5月)

福浦工員宿舎001
昭和18年5月に発行された呉海軍工廠・福浦工員宿舎を紹介した冊子です。
福浦工員宿舎は現在の呉市広地区にありました。福浦工員宿舎は終戦まで存続しますが、戦後は払い下げられ現在はその面影は残されていません。この冊子はその福浦工員宿舎の様子を知る資料となります。
内容は続きを読むからご覧ください。

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戦争末期~終戦直後に祖母に宛てた祖父の手紙。

陸軍曹長時代と祖母
太平洋戦争末期の昭和20年4月より渥美半島に本土決戦用の部隊として駐屯した、歩兵第441連隊の連隊本部付の下士官だった祖父が昭和20年5月から終戦後の昭和20年11月8日まで祖母に宛てた手紙です。
祖父は筆まめで、志願兵として入営した昭和14年1月から昭和15年7月までの日記は残されていますが、
※祖父の軍人日記の記事のリンク。
祖父の軍人日記(昭和14年1月12日から5月30日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年5月31日から10月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和14年10月3日から昭和15年1月1日まで)
祖父の軍人日記(昭和15年1月1日から昭和15年7月13日まで)
それ以降の日記がなく、終戦まで具体的にどんな生活をしていたかは不明でした。
この度、実家の土蔵より昭和20年5月から昭和20年11月まで祖父が祖母に宛てた手紙が20通見つかりました。戦時中は検閲があり具体的な部隊での内容は書けず、戦後は書く必要もないので日記の欠けを補完するものではありませんが、戦争末期当時の様子、敗戦後の職業軍人だった祖父の心境の変化などがよく書かれており、記事にすることにしました。
続きを読むからご覧ください。

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古写真・歩兵第十七連隊第二大隊第六中隊(明治33年 軍旗祭にて)

第17連隊003
歩兵第17連隊は、明治18年に仙台にて編成された歩兵連隊で、日清戦争参加後、明治31年に秋田市に移転。仙台の第2師団から弘前の第8師団に所属変更しました。
この古写真は、明治33年の軍旗祭の時に、第六中隊の兵舎前で撮影されたものです。兵舎前には出し物とかが置かれています。
第17連隊002
写真の台紙裏にある書き込み。置かれているのは鯉の滝登りのオブジェのようです。

古絵葉書・神戸タワー

神戸タワー001
神戸市にあるタワーと言えば、現在ではポートアイランドにある神戸ポートタワーが有名ですが、戦前から戦後にかけて、もう一つタワーが存在していました。それは、神戸タワーと呼ばれる建物で、大正13年に湊川公園内に建てられた塔です。
オベリスク風の塔は高さ90mを誇り、浅草の凌雲閣と大阪の通天閣と並んで日本三大望楼とも呼ばれていました。
昭和に入りタワーの側面に広告が入るようになり、昭和9年には「特急大阪行阪神電車」のネオンサインが設置されました。この絵葉書の神戸タワーは完成間もないころに撮影されたものと思われます。
昭和20年の神戸大空襲でも被害を受けず、戦後も新開地のシンボルとして存在しましたが、老朽化により昭和43年に解体されました。現在は跡地に記念の時計塔が建てられています。

古絵葉書・生駒山上遊園地飛行塔

生駒山上遊園地001
生駒山上遊園地にある飛行塔は昭和4年に完成した大型遊具としては現存最古のものです。昭和4年に完成した生駒山上遊園地は生駒鋼索鉄道と共に観光地としてにぎわい、特に飛行塔は生駒山上遊園地のシンボルとして人気を博しました。
生駒山上遊園地002
戦時中、その眺望の良さから飛行塔は奈良海軍航空隊が接収し、防空監視所として終戦まで使用されました。
生駒山上遊園地飛行塔
そのため金属供出は免れ、現在も生駒山上遊園地のシンボルとして、現存する最古の貴重な戦前の大型遊具として今もそびえています。

古記録・陸軍歩兵第120連隊(福知山)所属、羽田上等兵の日中戦争での部隊行動を記した日記

第三分隊
福知山にて編成された歩兵第120連隊に応召された羽田上等兵が中国戦線で戦い、負傷して帰還するまでの1年半を記録した日記です。
歩兵第120連隊は昭和13年5月、福知山にて編成。すぐに中国大陸に渡り、湖州付近の警備に付き、その後、武漢作戦、順安攻略戦、青陽作戦と連戦。終戦まで中国大陸で戦闘を続けた部隊でした。
羽田上等兵の手記によると、歩兵第120連隊編成直後に応召。中国大陸に渡り戦闘を続けた後、負傷し帰国するまでの内容か詳細に記されています。部隊の作戦行動が詳細に書かれているため、本来なら軍事機密に影響があるとして検閲されるべき内容が、個人の手記という性格のため、日中戦争における部隊の行動や生々しい戦闘の様子などが記録された貴重な記録となっています。以下、記録のある全ページを紹介します。「続きを読む」からご覧ください。

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古絵葉書・東山区役所新築記念絵葉書

東山区役所001
昭和5年に竣工した京都市の東山区役所の新築記念絵葉書です。東山区役所は京都市営繕課によって設計されました。
東山区役所002
東山区役所の外観。モダニズム建築の外観です。木に隠れて見えませんが、玄関部分のバルコニーに意匠が見られます。
東山区役所003
事務室。こちらも装飾を排したモダニズムの内装です。
東山区役所004
会議室。ちょっのと殺風景な気もします。
東山区役所は増築を経て平成3年まで使用された後、京都国立博物館の管理棟として利用されていましたが、現在は使用されていないようです。

古写真・秋田大林区署庁舎

秋田大林区署庁舎
かつて各藩が所有していた山林は明治維新後に国有林となりました。明治19年、大小林区署制度が制定され、京都、兵庫、静岡、三重、岐阜、岡山、広島、山口、福岡、大分、宮崎、鹿児島、和歌山、高知、愛媛、木曽、石川、茨城、宮城、秋田、青森の21ヵ所に大林区署が設定されました。この古写真は明治34年に完成した秋田大林区署庁舎です。現在は東北森林管理局として業務を受け継いでいます。

※参考
林野庁HP「明治期の国有林野事業について」

古写真・初代秋田県庁舎(明治後期頃)

秋田県庁001
初代秋田県庁舎は明治13年に現在の秋田市中通三丁目に開庁しました。外観は明治初期に流行した擬洋風建築。手前の橋は二丁目橋。左手には掲示板があり、写真には掲示板を読んでいる人が写っています。県庁舎の手前に写る付属屋は竣工当時には無かったようで、撮影時期は明治後期頃と推定されます。初代秋田県庁舎は昭和13年に2代目の庁舎に建て替えられました。

古絵葉書・鈴鹿海軍航空隊記念絵葉書(6枚セット )

鈴鹿海軍航空隊002
鈴鹿海軍航空隊は昭和13年に開隊した航空隊で、航空隊員の養成を行う教育訓練部隊でした。この絵葉書は鈴鹿海軍航空隊での生活を紹介した6枚セットの記念絵葉書です。
続きを読むよりご覧ください。

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古写真・米軍撮影の対馬市卯麦港への空襲写真(昭和20年8月10日)

米軍撮影の対馬空襲ブログ用
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
米軍が撮影した昭和20年8月10日の対馬市卯麦港の空襲の写真です。奥に写るのが卯麦港で、爆弾が投下され煙が上がっています。
対馬着弾地点
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着弾地点の拡大。手前が卯麦港。着弾し炎上している場所には現在、一華院という寺院がありますが、この時はどうだったんでしょうか。
擬装船舶
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写真の丸印は樹木等で擬装した船舶。どういう船か分かりませんが、擬装をしているという事は、海軍の艦船でしょうか。写真を見る感じでは割と地形と同化して分かりづらい感じに擬装していますが、丸印がされているので、米軍側には丸わかりだったんでしょう。
対馬現在
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
現在の対馬市卯麦港の航空写真。現在の卯麦港も78年前と変わらないのどかな港です。そんな小さな港も米軍の攻撃に晒されていました。

古写真・米軍撮影による熊本市川尻地区の空襲写真2枚(昭和20年8月7日 緑川橋・新町橋)

熊本市川尻緑川橋への機銃掃射ブログ用
※サムネイル画像のクリックで拡大します。昭和20年8月7日に熊本市川尻地区への爆撃を米軍が撮影した写真2枚です。この時の空襲はB25が行っているようです。1枚目は緑川に架かる緑川橋を爆撃及び機銃掃射を行っている写真と思われます。
熊本市川尻への機銃掃射003
緑川橋に投下される爆弾の拡大。
熊本市川尻への機銃掃射005
写真奥には迎撃機と思われる機体が4機飛行しています。どこの航空隊の機体か不明ですが、近い場所なら知覧の航空隊でしょうか。
熊本市川尻緑川
※サムネイル画像のクリックで拡大します。空襲を受けた緑川橋の現在の航空写真です。現在は国道3号線の川尻バイパスとなっています。

熊本市川尻新町橋の機銃掃射ブログ用2
2枚目は加勢川に架かる新町橋に爆撃を行っている写真と思われます。
熊本市川尻への空襲002
サムネイル画像のクリックで拡大します。
橋部分の拡大。発生している煙の量から、1枚目の緑川橋に投下された爆弾と同じ物の可能性があります。
熊本市川尻加勢川
空襲を受けた新町橋の現在の航空写真です。現在は県道50号線の橋となっています。

昭和20年8月7日熊本県松橋町3
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以前記事にした写真で、熊本県宇城市松橋町の機銃掃射の写真があります。川尻地区の空襲と同じ昭和20年8月7日であり、川尻地区からは8kmほど離れていますが、資料には同日B25が松橋と川尻の橋を攻撃をしたとあるため、同じB25と護衛のP47による機銃掃射ではないかと思われます。

※関連記事
古写真・米軍撮影の熊本県宇城市松橋町への空襲写真(昭和20年8月7日)

古写真・米軍撮影による奄美大島の偵察写真・空襲写真(名瀬・大和村 昭和20年8月10日)

奄美大島名瀬の偵察写真ブログ用1
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昭和20年8月10日に撮影された奄美大島名瀬の偵察写真と空襲写真、奄美大島大和村の偵察写真の3枚です。1枚目は現在の奄美市名瀬朝仁町・浜里町・平松町を撮影したものです。奥の岬はあかさき公園のある岬で、麓の海岸は朝仁海岸です。
(資料3点の撮影地点は、瀬戸内町教育委員会の鼎さつき様よりご教示いただきました。ありがとうございました。)
奄美大島名瀬の偵察写真ブログ用2
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2枚目は大和村の中心部を撮影した偵察写真です。右上の湾は思勝湾。大和浜の砂浜は現在町側の部分は埋め立てられています。昭和20年ではほとんどが農地で、民家がまばらに建っているだけですが、現在は完全に市街地となっており、写真中央の山裾の広場には現在、大和村役場が建っています。写真の左端に寄棟の藁葺き屋根の建物が4棟建っていますが、これは群倉(ボレグラ)という高床式倉庫で現在も残されており、鹿児島県指定文化財となっています。
奄美大島名瀬への機銃掃射ブログ用
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3枚目は奄美市名瀬真名津町の機銃掃射と思われる空襲写真です。左側に写る川は新川。建てられている民家に対して攻撃が行われ、民家からは白煙が上がり、山には火災が起きています。
名瀬
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機銃掃射を受けている民家の拡大。各民家からは白煙が上がり、手前の民家は機銃掃射による攻撃によりボロボロとなっており、空襲の激しさが伺えます。
奄美大島名瀬機銃掃射地点
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空襲地点の現在の航空写真。機銃掃射を受けている地点は現在も住宅地となっています。

古絵葉書・三井生命保険株式会社新潟支店新築記念絵葉書(昭和15年)

三井生命保険株式会社新潟支店001
新潟市に建てられた三井生命保険株式会社新潟支店の新築記念絵葉書です。
三井生命保険株式会社新潟支店002
三井生命保険株式会社新潟支店の外観。縦の直線を強調したセセッション様式といったデザインです。
三井生命保険株式会社新潟支店003
営業室内。この新築絵葉書は2枚だけですが、もう少し枚数があった可能性があります。
三井生命保険株式会社新潟支店004
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三井生命保険株式会社新潟支店工事概要。設計は前田健二郎。施工は竹中工務店。建築様式は「近世復興式」となっていますが、戦前の建築概要で良く使われる近世復興式。訳せばネオ・ルネサンスとなるのでしょうが、どうも近代建築としての様式全てに当てはめているようです。
京都市京セラ美術館 昭和8年
前田健二郎は戦前、数々の建築コンペに応募、入選し「コンペの前健さん」と呼ばれた建築家でした。
現存の代表作として大礼記念京都美術館(現・京都市京セラ美術館 昭和8年)があります。

三井生命保険株式会社新潟支店のあった場所は現在、マンションとなっているようです。

古写真・初代大阪控訴院(明治23年~明治29年)

大阪裁判所001
明治23年4月、大阪市北区若松町に初代大阪控訴院の煉瓦造3階建ての庁舎が完成。しかし、この威厳ある煉瓦造3階建ての庁舎も明治29年に焼失してしまいました。明治33年、初代庁舎の跡地に2代目の庁舎が完成。設計は河合浩蔵。河合浩蔵は大阪・神戸を中心に作品を手掛け、現存する旧小寺家厩屋・海岸ビル・新井ビルなどを設計しています。その2代目の庁舎も明治42年に焼失。大正5年、刑務所建築で知られる山下啓次郎設計により3代目の庁舎が完成しました。この古写真は初代大阪控訴院を撮影したもので、明治23年の竣工から明治29年に焼失するまでの6年間の間に撮影されたものです。

古写真・関西鉄道100号機(国鉄2802号機)明治38年頃

関西鉄道100号機鉄道院2800形ブログ用
関西鉄道で使用されていた100号機の写真です。関西鉄道は明治21年に開業した鉄道路線で、現在のJR関西本線・草津線・片町線・紀勢本線・桜井線・和歌山線・奈良線・大阪環状線の前身です。100号機は明治38年に奈良鉄道から関西鉄道へと経営譲渡による編入により関西鉄道の所有となり、明治40年の国有化に際し、100号機は国鉄2802号機と改称されました。
関西鉄道100号機002
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車体に取り付けられた関西鉄道と100の文字。
関西鉄道100号機003
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車体に取り付けられた製造会社のプレート。関西鉄道100号機は明治30年、スイス・ロコモティブ・アンド・マシン・ワークス社により製造されました。

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