古写真・米軍接収の四式戦闘機 疾風(沖縄戦後の撮影)

四式戦闘機・疾風は戦争末期の昭和19年より正式採用された大日本帝国陸軍の戦闘機でした。
制式採用後は中国戦線・フィリピン・ビルマ・沖縄戦や本土防空と多くの場所で運用されました。この写真は米軍に接収された疾風で、機体に点線でグリッド分けされ調査されています。写真裏に「ki84 burning on okinawa after」の文字があり、沖縄戦の後に撮影されたものと思われます。
現在疾風は知覧特攻平和会館に展示されている機体が唯一現存する実機となります。当機はアメリカから日本人実業家に買い取られ、その後私設美術館が所有しましたが、管理状態が劣悪で機体の劣化・部品の盗難等により飛行不可能な状態となりました。
古写真・米軍接収の飛行する東海

陸上哨戒機・東海は日本海軍が開発した航空機で、哨戒機としては日本初の機体でした。太平洋戦争開戦後、潜水艦に対する沿岸の哨戒の必要性を感じた海軍は昭和17年に渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に試作機の開発を命じ、昭和19年4月より量産開始。昭和20年1月には東海一一型が正式採用されました。
東海は対潜水艦磁気探知機であるKMX(三式一号探知機)を搭載し実戦配備された館山海軍航空隊ではKMXを生かした対潜方法の研究が行われました。
最初に東海は佐伯海軍航空隊に配属され、その後各地の航空隊に配備されていきましたが、特に館山の第九〇一海軍航空隊に多く配備されたようです。総生産数153機のうち終戦時68機が残存。いくつかは米軍が接収して調査されたようです。
写真は飛行する東海。機体に米軍の星マークがあります。地上には滑走路が。旧日本軍の航空基地と思われます。
古絵葉書・横須賀東京湾要塞司令部

東京湾要塞は東京湾の防衛のために設けられた要塞で、司令部は横須賀市上町に置かれました。明治13年の観音崎砲台着工をきっかけとし、明治27年に臨時東京湾守備隊司令部を設置。明治28年に東京湾要塞司令部が発足しました。
東京湾要塞の砲台は、横須賀港・三浦半島・房総半島に置かれ、特に東京湾入口に建設された人口の島である東京湾海堡は有名で、第一から第三海堡が建設されましたが、関東大震災で第二・第三海堡は大きな被害を受け除籍。第一海堡のみの運用となりました。現在、第一・第二海堡は現存。第三海堡は近年撤去が住み、一部の施設は保存展示されています。
この絵葉書は明治後期から大正期にかけて撮影された東京湾要塞司令部と思われます。

正門の前に立ち上がっている犬がいます。飼い主らしい人物が写っておらず、野良犬が門の前にいるのか、もしかしたら東京湾要塞司令部で飼われていた犬かもしれません。ともあれ、のどかな写真ですね。
古写真・舞鶴重砲兵連隊による十四年式十糎高射砲の射撃演習(福井県・大飯高浜鐘寄海岸か)

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舞鶴重砲兵連隊が十四年式十糎高射砲の射撃演習を行っている古写真です。十四年式十糎高射砲は大正14年に制式採用された陸軍の高射砲で、戦時中は本土防空用として使用。昭和18年に後継の三式十二糎高射砲が正式採用された後も主に八幡製鉄所の防空に使用されました。この写真は舞鶴重砲兵連隊の兵士が海岸で射撃演習をしている古写真ですが、海岸の場所について、いつもお世話になっていますブログ「大日本者神國也」の盡忠報國様、Twitterでお世話になってます、たまや(@tamaya8901)様のご協力により福井県高浜町の大飯高浜鐘寄海岸ではと判明しました。

現在の大飯高浜鐘寄海岸。写真と山の稜線が異なるのは、舞鶴要塞地帯内であるため、写真自体の修正がされているのではとのことでした。
古写真・舞鶴重砲兵連隊内の古写真10枚(昭和15年頃)

海軍の舞鶴鎮守府のあった舞鶴には、軍港である舞鶴湾防備のために砲台や堡塁のある舞鶴要塞がありました。その舞鶴要塞の砲台・堡塁の運用を行っていたのが舞鶴重砲兵連隊です。明治30年、舞鶴軍港の防備のため舞鶴要塞砲兵大隊を創設。明治31年に西舞鶴の上安久に移転し舞鶴重砲兵大隊と改称。昭和11年に舞鶴重砲兵連隊に昇格しました。以下の古写真は舞鶴重砲兵連隊に所属していた一兵士が所有していたと思われる10枚の写真で、写真裏の書き込みから昭和15年頃の撮影と思われます。
このブログ記事の作成にあたって、ブログ「大日本者神國也」の盡忠報國様よりご教示いただきました。ありがとうございました。
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古写真・舞鶴重砲兵連隊砲台演習写真(舞鶴匂崎演習砲台か・昭和15年頃)

海軍の舞鶴鎮守府のあった舞鶴には、軍港である舞鶴湾防備のために砲台や堡塁のある舞鶴要塞がありました。その舞鶴要塞の砲台・堡塁の運用を行っていたのが舞鶴重砲兵連隊です。明治30年、舞鶴軍港の防備のため舞鶴要塞砲兵大隊を創設。明治31年に西舞鶴の上安久に移転し舞鶴重砲兵大隊と改称。昭和11年に舞鶴重砲兵連隊に昇格しました。以下の古写真は舞鶴重砲兵連隊の演習砲台だった舞鶴匂崎演習砲台で撮影されたと思われる4枚です。
このブログ記事の作成にあたって、ブログ「大日本者神國也」の盡忠報國様よりご教示いただきました。ありがとうございました。

※以下の画像はサムネイル画像のクリックで拡大します。
砲座に設置されている克式三十五口径二十一糎加農砲2門。砲の回転レールと車輪の様子がよく分かります。砲の下には砲弾が置かれています。発射火薬の装薬を装填している作業中の写真でしょうか。砲座の土塁部分は他の砲台・堡塁に見られるような石積はされておらず、素掘りに見えます。

上の写真とは別位置と思われる克式三十五口径二十一糎加農砲。木造の覆屋がありますが、土塁は石積等の擁壁はありません。克式三十五口径二十一糎加農砲はドイツ・クルップ社製の砲で、明治期に輸入されたものが演習用に設置されたものと思われます。

砲座に設置されている二十八糎榴弾砲2門。写真には写ってませんが左奥にも同じ二十八糎榴弾砲があるのが分かります。木造の覆屋を掛けた砲座で砲の発射方向、角度を調整しているのか砲手の兵たちが力を合わせて作業しています。重労働のためか砲手は全員上半身裸で作業しています。少し奥には新兵でしょうか整列して作業を見守る兵たちが、さらに奥には教官でしょうか将校の姿も見えます。要塞の砲台って露天の野ざらしのイメージがありましたが、この写真では覆屋があります。

3枚目の写真と同じ位置と思われる二十八糎榴弾砲。二十八糎榴弾砲は大阪砲兵工廠にて開発された砲で、日露戦争で旅順要塞の攻略等に攻城砲として使用されたことでも知られています。

匂崎演習砲台は現在、匂崎公園となり砲座や各施設等はほぼ全て失われ、尾根の南側の二十八糎榴弾砲があった箇所に擁壁と思われる煉瓦積の遺構がわずかに残るのみです(戦後の積み直しの可能性あり)。現在では演習砲台の面影が失われ、当時の雰囲気を現地では感じ取ることが出来なくなった現在、かつての砲台での運用の様子や雰囲気を伝える好資料と言えます。
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古写真・舞鶴重砲兵連隊内の古写真10枚(昭和15年頃)
古書籍・軍隊調理法(昭和12年改訂版 昭和16年第12版)

軍隊調理法とは、大日本帝国陸軍が編纂した料理の基礎知識と兵食のレシピをまとめた書籍です。元々は明治43年に発行された「軍隊料理法」があり、昭和3年に軍隊料理法に代わる参考書として軍隊調理法が発行されました。昭和6年、昭和12年と改定が行われ、昭和12年改訂版が終戦までの日本陸軍のレシピ集となりました。この古書籍は昭和12年改訂版の軍隊調理法で、昭和12年から終戦まで日本陸軍がどのようなものを食していたかを知る資料となります。ちなみに軍隊調理法に記載されている料理レシピは平時の兵舎内を対象としたもので、演習地や戦地での戦闘糧食は対象外となっています。(一応、野外での炊事の方法は収録されています。)
以下にレシピの目次と一部レシピを紹介しています。続きを読むよりご覧ください。
古写真・清水市米英討滅起誓大会(昭和16年12月13日) 愛国第195号・清水市号

段上横に「清水市米英討滅起誓大会」と書かれた主旨の決議文の紙が貼られた式典の写真です。
場所は不明ですが、清水市内(現・静岡市清水区)の公会堂か市役所の正庁かと思われます。

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「清水市米英討滅起誓大会」の決議文。
日付は昭和16年12月13日となっており、開戦7日後に行われた大会のようです。

同時に入手した古写真。愛国一九五号清水市号の文字が書かれた旗が写っています。
献納愛国号ということで、陸軍機の献納式の写真と思われていますが、こちらのサイトでは、愛国195号は丸水渡邉商会の献納機となっています。実機が写っていないので機体は不明ですが、もしかしたら番号が重複していた可能性があります。
古写真・米軍撮影の中島飛行機太田製作所・小泉製作所・太田飛行場偵察写真(昭和20年1月頃か)

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米軍により撮影された中島飛行機太田製作所・小泉製作所の偵察写真です。昭和20年2月10日に太田製作所が、2月25日に小泉製作所が初空襲を受けており、空襲前の偵察写真として撮影されたものと思われます。
写真には太田製作所、太田飛行場、小泉製作所の他に工場社宅街等も写っています。

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中島飛行機太田製作所部分の拡大。太田製作所は昭和9年に現在の群馬県太田市に開設した組立工場でした。
昭和15年に開設した小泉製作所の完成以後は、陸軍機専用の組立工場となります。
太田製作所は昭和20年2月10日に初空襲を受け、以後、2月16日、2月25日の空襲で壊滅しました。
現在跡地は、SUBARU群馬製作所本工場の敷地となっています。

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中島飛行機小泉製作所部分の拡大。小泉製作所は昭和15年に現在の群馬県大泉町に開設した海軍機専用の組立工場でした。
小泉製作所は2月25日に初空襲を受け、4月3日の空襲で壊滅しました。
現在跡地はパナソニック東京製作所の敷地となっています。

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中島飛行機太田飛行場部分の拡大。太田飛行場は太田製作所、小泉製作所のテスト飛行兼納入用として昭和16年に完成した専用飛行場でした。太田飛行場は太田製作所、小泉製作所と道路で繋がり、その道路は「専用道路」と呼ばれました。
写真には滑走路の他に格納庫や飛行場の諸施設が並び、飛行場の南北には多数の無蓋掩体壕も確認できます。
現在跡地はSUBARU群馬製作所大泉工場の敷地となっています。

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太田製作所の近くに周濠のある大きな古墳が写っています。これは太田天神山古墳という全長210mの前方後円墳で、東日本最大級の古墳です。現在後円部の北端に道路が通り、堀と後円部北端を破壊していますが、この偵察写真にもすでに道路らしきものが写っています。工場建設の際に造られたのでしょうか。ただし、現在よりも前方後円墳としての形は保たれているような感じもします。
古絵葉書・福知山兵営生活(歩兵第20連隊営庭)

福知山・陸軍歩兵第20連隊の営庭で体操をしている様子です。この絵葉書で特筆すべきは、背後の倉庫が鮮明に映っていることです。兵舎の写真は多いですが、倉庫の詳細な写真はあまり見かけません。

この絵葉書の右奥に写る建物と思われます。

20数年前までは自衛隊の敷地外に20連隊時代の兵器庫が残されていました。


こちらは都城市にあった旧陸軍第64連隊の被服倉庫(現在は滅失)。板張りの当時の外観がそのまま残されており、イメージ的にはこちらの方が近いでしょうか。
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古絵葉書・福知山歩兵第二十連隊絵はがき(5枚セット)
古写真・野戦重砲兵第4連隊(昭和初期頃撮影か)

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野戦重砲兵第4連隊を撮影した古写真です。野戦重砲兵第4連隊は近衛師団に所属する部隊で、元々は広島県にて編成しました。
大正11年、広島から現在の千葉県四街道市に移転。野戦砲兵学校の西側に兵営は置かれました。昭和14年にはノモンハン事件に参加。太平洋戦争中には南方の戦線に参戦し、終戦を迎えました。1枚目の写真は昭和初期頃撮影と思われる野戦重砲兵第4連隊の空撮写真で、兵舎や弾薬庫がはっきりと確認できます。昭和22年の空撮写真と比較しましたが、あまり変化はないようです。

野戦重砲兵第4連隊の連隊本部庁舎。手前の砲弾は記念碑でしょうか。


野戦重砲兵第4連隊の兵舎写真2枚。

野戦重砲兵第4連隊の営門。
野戦重砲兵第4連隊の跡地は現在、愛国学園となっており、写真の煉瓦造の営門が残されています。
冊子・上野市(現・伊賀市)鳥瞰図(吉田初三郎 昭和17年)

大正広重と称された鳥瞰図絵師・吉田初三郎が昭和17年に現在の伊賀市を描いた鳥瞰図です。

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昭和16年に発足した上野市を記念して上野市からの依頼で描いたものと思われます。

この上野市鳥瞰図が描かれたのは昭和17年。鳥瞰図には「紀元二千六百二年」の文字があり、裏面の解説文の奥付にも昭和17年の記載があります。実はこの鳥瞰図が描かれた年がこの資料の重要な点であり、問題点でもあります。
大正からの観光ブームで吉田初三郎を始め多くの絵師によって描かれた日本各地の鳥瞰図。吉田初三郎は昭和初期から10年代前半まで増加した町村合併による市政発足を記念した依頼が増え、多く手掛けていましたが、昭和14年12月12日の「官報」にて公表された「軍機保護法施行規則」の改訂、「水陸ノ形状ハ施設物ノ状況ノ空中、高所ヨリノ撮影又ハ複写若ハ複製但シ被写体ヨリノ高サ二〇メートル以下ノ場合ヲ除ク」の条文で、これまで「水産ノ形状」が「水陸ノ形状」へと変更され、更に除外対象が「100メートル以下」だったのが「20メートル以下」と定められ、実質的に鳥瞰図を描くことが困難となりました(文献注1)。戦争の影が色濃くなる中で、地形がはっきりと認識できる鳥瞰図は軍機に触れ、スパイ行為に加担するとされるようになりました。吉田初三郎も鳥瞰図の仕事が出来なくなり、以後は街の様子を地上目線からピンポイントで描いた絵葉書作成がメインとなります。
しかし、この上野市鳥瞰図は昭和17年の戦争真っただ中で描かれており、異例の作品となります。何故この鳥瞰図は許可が得られたのか、疑問が残ります。

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伊賀上野城と上野市(現・伊賀市)の市街地部分。伊賀上野城は割と詳しく書かれていますが、市街地は昭和10年代前半までの作品とは違いかなり簡略化されています。

伊賀市の茅町駅と桑町駅の間にはかつて海軍航空隊伊賀上野航空基地がありました。昭和18年から建設が始まったそうですが、計画や実地調査は前年の昭和17年までには始まっていたはずで、そうなると昭和17年に描かれたこの鳥瞰図は軍機上不都合なものになるわけですが。
現在のところ、太平洋戦争開戦後の戦時中に描かれた吉田初三郎の鳥瞰図は、今のところこの上野市鳥瞰図しか把握できていません。
※文献注1
堀田典裕「吉田初三郎の鳥瞰図を読む」 河出書房新社 2009年
古写真・琵琶湖疏水第2疏水鴨東運河工事写真(明治42年から明治44年頃撮影)

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明治27年、滋賀県大津市と京都市をつなぐ琵琶湖疏水第1疏水が完成。京都の近代化に大きく貢献しましたが、時代が進むにつれ第1疏水では賄いきれない電力需要と新たな上水道施設への供給のため、第2疏水建設の計画が立てられました。明治41年工事着工。明治45年に完成しました。この写真は工事を請け負った大溝組が第1疏水の時に完成していた鴨東運河の拡張改修工事の際に工事の様子を記念して撮影された写真です。
鴨東運河は蹴上の南禅寺船溜まりから鴨川をつなぐ運河で、第2疏水工事の際、水量が第1疏水の3倍にもなることから、拡張工事が行われました。
奥に写る洋館は明治42年完成の京都商品陳列所(現在の京都市美術館の位置)。ですので、この写真は明治42年から第2疏水完成の明治45年までに撮影された写真と分かります。
古写真・海軍省 (築地時代の正門か・明治初期撮影)

海軍省の看板が掲げられた正門です。門の造りと背後の建物から築地時代の海軍省と思われます。
海軍省は明治4年に築地の旧尾張藩邸に設立され、旧藩邸庭園の築山に旗を立てたことから、旗山と呼ばれていました。
当時は海軍本省と呼ばれ、築地一帯はこの海軍省や後の海軍兵学校となる海軍兵学寮など海軍関連の施設が建ち並んでいました。築地の海軍省は明治17年頃に取り壊され、明治28年に完成したジョサイアコンドル設計の赤煉瓦の庁舎に移転することになります。

写真は以前紹介しました築地時代の海軍省の庁舎です。築地ホテルとよく似たナマコ壁の擬洋風建築でした。

こちらも以前紹介した側面から撮影された築地時代の海軍省の庁舎です。
※関連記事
古写真・海軍省(築地時代初代庁舎)
古写真・米軍撮影のパラシュート付き爆弾の投下写真(場所不明)。

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米軍が撮影したパラシュート付き爆弾の投下写真です。キャプションに「TAIEN」の文字があり爆撃箇所の地名かと思われますが、詳細不明です。奥の方にもパラシュート付き爆弾が写っており、奥から飛行しながらばらまいた様子が分かります。

※パラシュート付き爆弾の拡大。1つの爆弾につき2つのパラシュートが付いているのが分かります。米軍が使用したパラシュート付き爆弾には種類があり、よく使用された500ポンドのパラフラッグ弾はパラシュートは4つだったようなので、このパラシュート付き爆弾はそれよりも小型の爆弾でしょうか。
パラシュート付き爆弾は日本本土では南九州地域でよく使用されました。


※古写真・米軍撮影による串木野空襲の写真4枚(昭和20年8月9日・12日)
現在のいちき串木野市の照島国民学校(現・照島小学校)付近に投下され炸裂するパラシュート付き爆弾。この写真の数コマ前の写真にはパラシュートが4つ付けられた爆弾の着弾直前の写真が写されています。
古写真・米軍撮影の筑波海軍航空基地偵察写真

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米軍が撮影した筑波海軍航空基地の偵察写真です。筑波海軍航空基地は昭和13年に練習部隊である筑波海軍航空隊の基地として独立したのが始まりで、基地自体は昭和9年に完成していました。戦時中は本土防空部隊の基地として使用されました。
写真は昭和20年の初め頃に撮影されたものと思われる筑波海軍航空基地の偵察写真で、基地の施設や無蓋掩体壕等がはっきりと写っています。写真は上が南となります。

本部庁舎部分のアップ。中央部分が現在、筑波海軍航空隊記念館として現存している本部庁舎。格納庫も確認できます。

隊舎エリア?生垣に囲まれた中に建物が見えます。

敷地東側の無蓋掩体壕群。機体が駐機している掩体壕も見られます。

敷地西側の無蓋掩体壕群。こちらは元々あった森を切り開き、木々の中に隠すように造られています。
戦後、筑波海軍航空基地の跡地は住宅地や病院となりましたが、本部庁舎は筑波海軍航空隊記念館として保存されています。滑走路部分は現在も道路として残されていますが、無蓋掩体壕群は東側の部分はほとんど失われ、西側の掩体壕群が藪化した中にいくつか残されているようです。