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2022-07

古写真・スループ 海門(明治15年・横須賀)

海門001
海門は3本マストの海防艦として建造されたスループです。スループはいわゆる帆船の戦闘艦で、明治初期~前期の日本海軍が何隻か運用していました。
海門は明治10年に横須賀造船所(後の横須賀海軍工廠)にて起工し、明治15年に進水。明治17年に竣工しました。
竣工後は沿岸の警備等に従事し、明治27年に日清戦争に参加。日露戦争にも参加しましたが、掃海作業の援護中に触雷。沈没し艦長以下22名が犠牲になりました。
海門002
台紙に書き込みがあります。「十五年」は明治15年と思われますので、進水式の様子を撮影したのでしょうか。
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古写真・米軍接収の四式戦闘機 疾風(沖縄戦後の撮影)

沖縄で接収された疾風001
四式戦闘機・疾風は戦争末期の昭和19年より正式採用された大日本帝国陸軍の戦闘機でした。
制式採用後は中国戦線・フィリピン・ビルマ・沖縄戦や本土防空と多くの場所で運用されました。この写真は米軍に接収された疾風で、機体に点線でグリッド分けされ調査されています。写真裏に「ki84 burning on okinawa after」の文字があり、沖縄戦の後に撮影されたものと思われます。
現在疾風は知覧特攻平和会館に展示されている機体が唯一現存する実機となります。当機はアメリカから日本人実業家に買い取られ、その後私設美術館が所有しましたが、管理状態が劣悪で機体の劣化・部品の盗難等により飛行不可能な状態となりました。

古写真・米軍接収の飛行する東海

米軍接収の東海001
陸上哨戒機・東海は日本海軍が開発した航空機で、哨戒機としては日本初の機体でした。太平洋戦争開戦後、潜水艦に対する沿岸の哨戒の必要性を感じた海軍は昭和17年に渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に試作機の開発を命じ、昭和19年4月より量産開始。昭和20年1月には東海一一型が正式採用されました。
東海は対潜水艦磁気探知機であるKMX(三式一号探知機)を搭載し実戦配備された館山海軍航空隊ではKMXを生かした対潜方法の研究が行われました。
最初に東海は佐伯海軍航空隊に配属され、その後各地の航空隊に配備されていきましたが、特に館山の第九〇一海軍航空隊に多く配備されたようです。総生産数153機のうち終戦時68機が残存。いくつかは米軍が接収して調査されたようです。
写真は飛行する東海。機体に米軍の星マークがあります。地上には滑走路が。旧日本軍の航空基地と思われます。

古絵葉書・横須賀東京湾要塞司令部

横須賀東京湾要塞司令部003
東京湾要塞は東京湾の防衛のために設けられた要塞で、司令部は横須賀市上町に置かれました。明治13年の観音崎砲台着工をきっかけとし、明治27年に臨時東京湾守備隊司令部を設置。明治28年に東京湾要塞司令部が発足しました。
東京湾要塞の砲台は、横須賀港・三浦半島・房総半島に置かれ、特に東京湾入口に建設された人口の島である東京湾海堡は有名で、第一から第三海堡が建設されましたが、関東大震災で第二・第三海堡は大きな被害を受け除籍。第一海堡のみの運用となりました。現在、第一・第二海堡は現存。第三海堡は近年撤去が住み、一部の施設は保存展示されています。
この絵葉書は明治後期から大正期にかけて撮影された東京湾要塞司令部と思われます。
横須賀東京湾要塞司令部005
正門の前に立ち上がっている犬がいます。飼い主らしい人物が写っておらず、野良犬が門の前にいるのか、もしかしたら東京湾要塞司令部で飼われていた犬かもしれません。ともあれ、のどかな写真ですね。

古写真・舞鶴重砲兵連隊による十四年式十糎高射砲の射撃演習(福井県・大飯高浜鐘寄海岸か)

舞鶴重砲兵連隊十四年式十糎高射砲
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
舞鶴重砲兵連隊が十四年式十糎高射砲の射撃演習を行っている古写真です。十四年式十糎高射砲は大正14年に制式採用された陸軍の高射砲で、戦時中は本土防空用として使用。昭和18年に後継の三式十二糎高射砲が正式採用された後も主に八幡製鉄所の防空に使用されました。この写真は舞鶴重砲兵連隊の兵士が海岸で射撃演習をしている古写真ですが、海岸の場所について、いつもお世話になっていますブログ「大日本者神國也」の盡忠報國様、Twitterでお世話になってます、たまや(@tamaya8901)様のご協力により福井県高浜町の大飯高浜鐘寄海岸ではと判明しました。
鐘寄海岸
現在の大飯高浜鐘寄海岸。写真と山の稜線が異なるのは、舞鶴要塞地帯内であるため、写真自体の修正がされているのではとのことでした。

古写真・練習艦 館山(明治20年代頃撮影)

館山艦001
練習艦・館山は明治13年に竣工した木造船で、築地にあった川崎造船所にて建造されました。竣工当時の船名は第一回漕丸。明治19年に航海練習艦となり明治21年に横須賀鎮守府が購入。館山と命名されました。日清戦争に従軍するなど様々な任務に従事しましたが、木造船ということもあり腐食や老朽化が進み廃艦が決定。明治40に売却され解体されました。
この写真は明治20年代の撮影と思われる館山艦の古写真です。

古写真・紫電11型(米軍鹵獲機)

紫電11型甲001
局地戦闘機・紫電は水上戦闘機・強風を陸上戦闘機化した機体で、試作機を経て量産化された機体が紫電11型です。しかし、紫電では満足な評価を得ることは出来ず、中翼位置だった翼を低翼位置へと変更した紫電二一型が生産されました。これが有名な紫電改です。
 この古写真は昭和20年6月にフィリピンで鹵獲された紫電の写真と思われ、米軍機仕様の銀色の機体へと塗装が変更されています。

古写真・舞鶴重砲兵連隊内の古写真10枚(昭和15年頃)

舞鶴重砲兵連隊ブログ用正門
海軍の舞鶴鎮守府のあった舞鶴には、軍港である舞鶴湾防備のために砲台や堡塁のある舞鶴要塞がありました。その舞鶴要塞の砲台・堡塁の運用を行っていたのが舞鶴重砲兵連隊です。明治30年、舞鶴軍港の防備のため舞鶴要塞砲兵大隊を創設。明治31年に西舞鶴の上安久に移転し舞鶴重砲兵大隊と改称。昭和11年に舞鶴重砲兵連隊に昇格しました。以下の古写真は舞鶴重砲兵連隊に所属していた一兵士が所有していたと思われる10枚の写真で、写真裏の書き込みから昭和15年頃の撮影と思われます。
このブログ記事の作成にあたって、ブログ「大日本者神國也」の盡忠報國様よりご教示いただきました。ありがとうございました。
続きを読むよりご覧ください。

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古写真・舞鶴重砲兵連隊砲台演習写真(舞鶴匂崎演習砲台か・昭和15年頃)

舞鶴重砲兵連隊ブログ用正門
海軍の舞鶴鎮守府のあった舞鶴には、軍港である舞鶴湾防備のために砲台や堡塁のある舞鶴要塞がありました。その舞鶴要塞の砲台・堡塁の運用を行っていたのが舞鶴重砲兵連隊です。明治30年、舞鶴軍港の防備のため舞鶴要塞砲兵大隊を創設。明治31年に西舞鶴の上安久に移転し舞鶴重砲兵大隊と改称。昭和11年に舞鶴重砲兵連隊に昇格しました。以下の古写真は舞鶴重砲兵連隊の演習砲台だった舞鶴匂崎演習砲台で撮影されたと思われる4枚です。
このブログ記事の作成にあたって、ブログ「大日本者神國也」の盡忠報國様よりご教示いただきました。ありがとうございました。
舞鶴重砲兵連隊克式三十五口径二十一糎加農砲1
※以下の画像はサムネイル画像のクリックで拡大します。
砲座に設置されている克式三十五口径二十一糎加農砲2門。砲の回転レールと車輪の様子がよく分かります。砲の下には砲弾が置かれています。発射火薬の装薬を装填している作業中の写真でしょうか。砲座の土塁部分は他の砲台・堡塁に見られるような石積はされておらず、素掘りに見えます。
舞鶴重砲兵連隊克式三十五口径二十一糎加農砲3
上の写真とは別位置と思われる克式三十五口径二十一糎加農砲。木造の覆屋がありますが、土塁は石積等の擁壁はありません。克式三十五口径二十一糎加農砲はドイツ・クルップ社製の砲で、明治期に輸入されたものが演習用に設置されたものと思われます。
舞鶴重砲兵連隊二十八糎榴弾砲2
砲座に設置されている二十八糎榴弾砲2門。写真には写ってませんが左奥にも同じ二十八糎榴弾砲があるのが分かります。木造の覆屋を掛けた砲座で砲の発射方向、角度を調整しているのか砲手の兵たちが力を合わせて作業しています。重労働のためか砲手は全員上半身裸で作業しています。少し奥には新兵でしょうか整列して作業を見守る兵たちが、さらに奥には教官でしょうか将校の姿も見えます。要塞の砲台って露天の野ざらしのイメージがありましたが、この写真では覆屋があります。
舞鶴重砲兵連隊二十八糎榴弾砲4
3枚目の写真と同じ位置と思われる二十八糎榴弾砲。二十八糎榴弾砲は大阪砲兵工廠にて開発された砲で、日露戦争で旅順要塞の攻略等に攻城砲として使用されたことでも知られています。
匂崎演習砲台跡
匂崎演習砲台は現在、匂崎公園となり砲座や各施設等はほぼ全て失われ、尾根の南側の二十八糎榴弾砲があった箇所に擁壁と思われる煉瓦積の遺構がわずかに残るのみです(戦後の積み直しの可能性あり)。現在では演習砲台の面影が失われ、当時の雰囲気を現地では感じ取ることが出来なくなった現在、かつての砲台での運用の様子や雰囲気を伝える好資料と言えます。

※関連記事
古写真・舞鶴重砲兵連隊内の古写真10枚(昭和15年頃)

古写真・根津遊郭八幡楼

根津八幡楼
根津遊郭は江戸時代より続く遊郭街でした。明治に入っても遊郭街として存続しましたが、明治21年に洲崎へと移転しました。理由の1つとして近くに東京帝国大学があったからだと言われています。明治初期の根津遊郭では、八幡楼や松葉楼などが大きな店を構えており、この古写真はそのうちの1つの八幡楼を撮影したものです。移転後の八幡楼の跡地には明治29年に旅館・紫明館が開業しますが明治36年に廃業し、その後に本郷医院が開業します。現在八幡楼の跡地には解説板が設置されています。

古書籍・軍隊調理法(昭和12年改訂版 昭和16年第12版)

軍隊調理法1
軍隊調理法とは、大日本帝国陸軍が編纂した料理の基礎知識と兵食のレシピをまとめた書籍です。元々は明治43年に発行された「軍隊料理法」があり、昭和3年に軍隊料理法に代わる参考書として軍隊調理法が発行されました。昭和6年、昭和12年と改定が行われ、昭和12年改訂版が終戦までの日本陸軍のレシピ集となりました。この古書籍は昭和12年改訂版の軍隊調理法で、昭和12年から終戦まで日本陸軍がどのようなものを食していたかを知る資料となります。ちなみに軍隊調理法に記載されている料理レシピは平時の兵舎内を対象としたもので、演習地や戦地での戦闘糧食は対象外となっています。(一応、野外での炊事の方法は収録されています。)
以下にレシピの目次と一部レシピを紹介しています。続きを読むよりご覧ください。

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古写真・東京府庁(初代・旧大和郡山藩上屋敷時代)

東京府001
幕末の戊辰戦争で江戸を手中に収めた新政府は、慶応4年5月19日に江戸に新たな行政府を配置しました。奉行所は廃止され市政裁判所が置かれましたが、慶応4年7月17日に市政裁判所は廃止され東京府を設置しました。
初代の東京府は大名屋敷であった旧大和郡山藩上屋敷を使用。この古写真は初代東京府だった旧大和郡山藩上屋敷を写した写真です。
東京府庁看板001
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
門の部分にある東京府の看板。東京府は明治27年に有楽町に完成した煉瓦造の新庁舎へと移転しました。

古絵葉書・合資会社銭高組新築記念

合資会社銭高組001
大手ゼネコン会社の銭高組は1705年(宝永2年)創業の老舗企業です。戦前は数多くの建築物の施工を行い、勝鬨橋など重要文化財に指定されている建築物もあります。
この絵葉書は合資会社時代の銭高組の新社屋完成を記念して発行された絵葉書です。銭高組の公式HPによれば、大正11年に本店を大阪市西区土佐堀通3丁目に移転とあり、その際に建てられたものと思われます。昭和6年に株式会社銭高組となり、現在へと至ります。

古写真・清水市米英討滅起誓大会(昭和16年12月13日) 愛国第195号・清水市号

清水市米英討滅起誓大会1
段上横に「清水市米英討滅起誓大会」と書かれた主旨の決議文の紙が貼られた式典の写真です。
場所は不明ですが、清水市内(現・静岡市清水区)の公会堂か市役所の正庁かと思われます。
清水市米英討滅起誓大会2
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
「清水市米英討滅起誓大会」の決議文。
日付は昭和16年12月13日となっており、開戦7日後に行われた大会のようです。
愛国第195号清水号
同時に入手した古写真。愛国一九五号清水市号の文字が書かれた旗が写っています。
献納愛国号ということで、陸軍機の献納式の写真と思われていますが、こちらのサイトでは、愛国195号は丸水渡邉商会の献納機となっています。実機が写っていないので機体は不明ですが、もしかしたら番号が重複していた可能性があります。

古絵葉書・松江町役場新築記念絵葉書

松江町役場新築記念001
松江町は現在の東京都江戸川区にあった町で、明治22年に発足した松江村を始まりとします。
大正15年の町政発足で松江町が誕生。この新築の松江町役場はその頃に完成したものと思われます。
松江町役場新築記念002
松江町役場全景。中々オシャレな洋館です。
松江町役場新築記念003
松江町役場の玄関と会議室。松江町は昭和7年に東京市に編入。江戸川区の一部となりました。松江町はわずか6年のみ存在した町となりました。

古写真・米軍撮影の中島飛行機太田製作所・小泉製作所・太田飛行場偵察写真(昭和20年1月頃か)

中島飛行機太田・小泉製作所偵察写真ブログ用
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米軍により撮影された中島飛行機太田製作所・小泉製作所の偵察写真です。昭和20年2月10日に太田製作所が、2月25日に小泉製作所が初空襲を受けており、空襲前の偵察写真として撮影されたものと思われます。
写真には太田製作所、太田飛行場、小泉製作所の他に工場社宅街等も写っています。
中島飛行機太田製作所偵察写真007
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中島飛行機太田製作所部分の拡大。太田製作所は昭和9年に現在の群馬県太田市に開設した組立工場でした。
昭和15年に開設した小泉製作所の完成以後は、陸軍機専用の組立工場となります。
太田製作所は昭和20年2月10日に初空襲を受け、以後、2月16日、2月25日の空襲で壊滅しました。
現在跡地は、SUBARU群馬製作所本工場の敷地となっています。
中島飛行機小泉製作所偵察写真005
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中島飛行機小泉製作所部分の拡大。小泉製作所は昭和15年に現在の群馬県大泉町に開設した海軍機専用の組立工場でした。
小泉製作所は2月25日に初空襲を受け、4月3日の空襲で壊滅しました。
現在跡地はパナソニック東京製作所の敷地となっています。
中島飛行機太田飛行場偵察写真009
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
中島飛行機太田飛行場部分の拡大。太田飛行場は太田製作所、小泉製作所のテスト飛行兼納入用として昭和16年に完成した専用飛行場でした。太田飛行場は太田製作所、小泉製作所と道路で繋がり、その道路は「専用道路」と呼ばれました。
写真には滑走路の他に格納庫や飛行場の諸施設が並び、飛行場の南北には多数の無蓋掩体壕も確認できます。
現在跡地はSUBARU群馬製作所大泉工場の敷地となっています。
太田天神山古墳010
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太田製作所の近くに周濠のある大きな古墳が写っています。これは太田天神山古墳という全長210mの前方後円墳で、東日本最大級の古墳です。現在後円部の北端に道路が通り、堀と後円部北端を破壊していますが、この偵察写真にもすでに道路らしきものが写っています。工場建設の際に造られたのでしょうか。ただし、現在よりも前方後円墳としての形は保たれているような感じもします。

古写真・靖国神社 遊就館(初代)

靖国神社遊就館001
靖国神社遊就館は明治14年、靖国神社の宝物館として建てられました。設計はイタリア人建築家のカペレッティー。ロマネスク様式の壮麗な煉瓦建築でした。写真は明治後期頃の撮影と思われます。
大正12年の関東大震災で倒壊。昭和7年に現在の日本趣味建築の遊就館が完成。戦後に一時閉館に追い込まれ、企業の社屋等に転用されますが、昭和61年に再開。現在は戦没者の遺品や戦車・軍用機・火砲・銃火器といった大戦中に日本軍が使用した兵器類も展示されています。

古絵葉書・福知山兵営生活(歩兵第20連隊営庭)

福知山20連隊営庭001
福知山・陸軍歩兵第20連隊の営庭で体操をしている様子です。この絵葉書で特筆すべきは、背後の倉庫が鮮明に映っていることです。兵舎の写真は多いですが、倉庫の詳細な写真はあまり見かけません。
第二十連隊セット軍旗奉送
この絵葉書の右奥に写る建物と思われます。
旧陸軍第20連隊被服倉庫
20数年前までは自衛隊の敷地外に20連隊時代の兵器庫が残されていました。
都城64;連隊被服倉庫003
都城64;連隊被服倉庫004
こちらは都城市にあった旧陸軍第64連隊の被服倉庫(現在は滅失)。板張りの当時の外観がそのまま残されており、イメージ的にはこちらの方が近いでしょうか。

※関連記事
古絵葉書・福知山歩兵第二十連隊絵はがき(5枚セット)

古写真・野戦重砲兵第4連隊(昭和初期頃撮影か)

野戦重砲兵第4連隊001
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野戦重砲兵第4連隊を撮影した古写真です。野戦重砲兵第4連隊は近衛師団に所属する部隊で、元々は広島県にて編成しました。
大正11年、広島から現在の千葉県四街道市に移転。野戦砲兵学校の西側に兵営は置かれました。昭和14年にはノモンハン事件に参加。太平洋戦争中には南方の戦線に参戦し、終戦を迎えました。1枚目の写真は昭和初期頃撮影と思われる野戦重砲兵第4連隊の空撮写真で、兵舎や弾薬庫がはっきりと確認できます。昭和22年の空撮写真と比較しましたが、あまり変化はないようです。
野戦重砲兵第4連隊002
野戦重砲兵第4連隊の連隊本部庁舎。手前の砲弾は記念碑でしょうか。
野戦重砲兵第4連隊003
野戦重砲兵第4連隊004
野戦重砲兵第4連隊の兵舎写真2枚。
野戦重砲兵第4連隊005
野戦重砲兵第4連隊の営門。
野戦重砲兵第4連隊の跡地は現在、愛国学園となっており、写真の煉瓦造の営門が残されています。

冊子・上野市(現・伊賀市)鳥瞰図(吉田初三郎 昭和17年)

上野市鳥瞰図001
大正広重と称された鳥瞰図絵師・吉田初三郎が昭和17年に現在の伊賀市を描いた鳥瞰図です。
上野市鳥瞰図 昭和17年 ブログ用
※サムネイル画像のクリックで拡大します。
昭和16年に発足した上野市を記念して上野市からの依頼で描いたものと思われます。
上野市鳥瞰図003
この上野市鳥瞰図が描かれたのは昭和17年。鳥瞰図には「紀元二千六百二年」の文字があり、裏面の解説文の奥付にも昭和17年の記載があります。実はこの鳥瞰図が描かれた年がこの資料の重要な点であり、問題点でもあります。
大正からの観光ブームで吉田初三郎を始め多くの絵師によって描かれた日本各地の鳥瞰図。吉田初三郎は昭和初期から10年代前半まで増加した町村合併による市政発足を記念した依頼が増え、多く手掛けていましたが、昭和14年12月12日の「官報」にて公表された「軍機保護法施行規則」の改訂、「水陸ノ形状ハ施設物ノ状況ノ空中、高所ヨリノ撮影又ハ複写若ハ複製但シ被写体ヨリノ高サ二〇メートル以下ノ場合ヲ除ク」の条文で、これまで「水産ノ形状」が「水陸ノ形状」へと変更され、更に除外対象が「100メートル以下」だったのが「20メートル以下」と定められ、実質的に鳥瞰図を描くことが困難となりました(文献注1)。戦争の影が色濃くなる中で、地形がはっきりと認識できる鳥瞰図は軍機に触れ、スパイ行為に加担するとされるようになりました。吉田初三郎も鳥瞰図の仕事が出来なくなり、以後は街の様子を地上目線からピンポイントで描いた絵葉書作成がメインとなります。
しかし、この上野市鳥瞰図は昭和17年の戦争真っただ中で描かれており、異例の作品となります。何故この鳥瞰図は許可が得られたのか、疑問が残ります。
上野市鳥瞰図2
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伊賀上野城と上野市(現・伊賀市)の市街地部分。伊賀上野城は割と詳しく書かれていますが、市街地は昭和10年代前半までの作品とは違いかなり簡略化されています。
上野市鳥瞰図3
伊賀市の茅町駅と桑町駅の間にはかつて海軍航空隊伊賀上野航空基地がありました。昭和18年から建設が始まったそうですが、計画や実地調査は前年の昭和17年までには始まっていたはずで、そうなると昭和17年に描かれたこの鳥瞰図は軍機上不都合なものになるわけですが。
現在のところ、太平洋戦争開戦後の戦時中に描かれた吉田初三郎の鳥瞰図は、今のところこの上野市鳥瞰図しか把握できていません。

※文献注1
堀田典裕「吉田初三郎の鳥瞰図を読む」 河出書房新社 2009年

冊子・鹿児島県鳥瞰図(昭和7年・吉田初三郎 作)

鹿児島県鳥瞰図 昭和6年ブログ用
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「大正広重」と称された鳥瞰図絵師・吉田初三郎が昭和6年に描いた鹿児島県の鳥瞰図です。
鹿児島県全体を描いたものなので個々の街の描写は細かくないのが残念ですが、さすが吉田初三郎だけあり名所などの要所はしっかり描いています。
鹿児島市内
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鹿児島市街の部分。鴨池公園には昭和6年に開催された鹿児島国産振興博覧会の会場が描かれています。
笠原飛行場
鹿屋には海軍の飛行場だった笠原飛行場が描かれています。この鳥瞰図に描かれている軍の施設はこれだけでした。

古写真・琵琶湖疏水第2疏水鴨東運河工事写真(明治42年から明治44年頃撮影)

琵琶湖疏水第二疏水工事ブログ用
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明治27年、滋賀県大津市と京都市をつなぐ琵琶湖疏水第1疏水が完成。京都の近代化に大きく貢献しましたが、時代が進むにつれ第1疏水では賄いきれない電力需要と新たな上水道施設への供給のため、第2疏水建設の計画が立てられました。明治41年工事着工。明治45年に完成しました。この写真は工事を請け負った大溝組が第1疏水の時に完成していた鴨東運河の拡張改修工事の際に工事の様子を記念して撮影された写真です。
鴨東運河は蹴上の南禅寺船溜まりから鴨川をつなぐ運河で、第2疏水工事の際、水量が第1疏水の3倍にもなることから、拡張工事が行われました。
奥に写る洋館は明治42年完成の京都商品陳列所(現在の京都市美術館の位置)。ですので、この写真は明治42年から第2疏水完成の明治45年までに撮影された写真と分かります。

古写真・海軍省 (築地時代の正門か・明治初期撮影)

海軍省正門001
海軍省の看板が掲げられた正門です。門の造りと背後の建物から築地時代の海軍省と思われます。
海軍省は明治4年に築地の旧尾張藩邸に設立され、旧藩邸庭園の築山に旗を立てたことから、旗山と呼ばれていました。
当時は海軍本省と呼ばれ、築地一帯はこの海軍省や後の海軍兵学校となる海軍兵学寮など海軍関連の施設が建ち並んでいました。築地の海軍省は明治17年頃に取り壊され、明治28年に完成したジョサイアコンドル設計の赤煉瓦の庁舎に移転することになります。
築地海軍省002
写真は以前紹介しました築地時代の海軍省の庁舎です。築地ホテルとよく似たナマコ壁の擬洋風建築でした。
初代海軍省001
こちらも以前紹介した側面から撮影された築地時代の海軍省の庁舎です。

※関連記事
古写真・海軍省(築地時代初代庁舎)

古写真・陸軍省 (旧鳥取藩池田家上屋敷時代・明治初期撮影)

兵部省001
「官軍本部」の書き込みがある古写真です。この古写真は旧鳥取藩池田家上屋敷を庁舎にした陸軍省の写真と思われます。
陸軍省の前身の兵部省は明治2年に設立し、旧鳥取藩上屋敷がそのまま庁舎として使われました。明治5年に兵部省は廃止され、陸軍省と海軍省が設立。陸軍省はそのまま旧兵部省の鳥取藩上屋敷が使われました。明治11年、陸軍省が三宅坂の彦根藩上屋敷跡地に移転。新庁舎が建てられました。写真に写る旧鳥取藩上屋敷の表門は明治24年に高輪御所の表門として移築。昭和26年に重要文化財に指定され、昭和29年に現在の東京国立博物館の敷地に移築されました。

古絵葉書・世田谷警察署新築落成記念(昭和10年1月22日)

世田谷警察署001
昭和10年1月22日に竣工した世田谷警察署の庁舎を記念して発行された絵葉書です。絵葉書は現在2枚ですが、当初はもう何枚かあった可能性があります。警視庁の公式サイトの世田谷警察署の沿革によると、この庁舎は若林時代の庁舎だったようです。
世田谷警察署002
世田谷警察署庁舎外観。昭和10年代らしく装飾の無い機能主義の外観ですが、煉瓦タイルを外壁に貼っています。
世田谷警察署003
世田谷警察署の内部、演武場と事務室。こちらも装飾の無いすっきりとした内装です。
上記の沿革によると、昭和51年9月4日に現在地へと移転したとあり、この絵葉書の庁舎もその頃に取り壊された可能性があります。

古写真・外国語学校(明治初期撮影・旧制東京外国語学校)

外国語学校001
「外国語学校」の書き込みのある古写真です。明治初期、全国に官立および私立の外国語学校が設立されました。うち旧制東京外国語学校は明治6年に設立したもっとも古い外国語学校でした。この古写真は明治初期~前期頃に撮影された旧制東京外国語学校の正門の写真と思われます。旧制東京外国語学校は現在の一橋大学や東京外国語大学の前身となっています。

古写真・桂川橋梁(明治45年竣工時の撮影か)

桂川橋梁001
現在のJR東海道本線、西大路駅~桂川駅間の桂川に鉄橋が架けられています。元々は明治9年に開通した大阪~京都間の路線に架けられた鉄橋でしたが、明治45年にポニーワーレントラス桁の鉄橋が架けられました。それがこの古写真の桂川橋梁で、竣工時に撮影されたものと思われます。
桂川橋梁002
台紙裏に書かれた「西京桂川鉄橋」の文字。昭和3年の複線化の際に下り線側に曲弦トラス桁の鉄橋が架けられました。現在も、明治9年開業時の煉瓦橋脚の上に架けられた上り線側の明治45年完成の鉄橋、下り線側の昭和3年完成の鉄橋とも現役で使用されています。

冊子・平野屋を中心とせる東山から叡山への行楽御案内(吉田初三郎作・昭和3年)

平野屋を中心とせる東山から叡山への行楽御案内ブログ用
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大正広重と称された鳥瞰図絵師・吉田初三郎が昭和3年に描いた平野屋の各店を中心とした京都市内の鳥瞰図です。平野屋からの依頼からか平野屋の各店はやたら大きく描かれ、市内の他の観光名所や施設はごく簡略に描かれていますが、祇園周辺の神社仏閣はしっかり描かれています。
平野屋食堂
南座の側には洋風の食堂もあったようですね。

古写真・米軍撮影のパラシュート付き爆弾の投下写真(場所不明)。

落下傘爆弾002
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米軍が撮影したパラシュート付き爆弾の投下写真です。キャプションに「TAIEN」の文字があり爆撃箇所の地名かと思われますが、詳細不明です。奥の方にもパラシュート付き爆弾が写っており、奥から飛行しながらばらまいた様子が分かります。
落下傘爆弾003
※パラシュート付き爆弾の拡大。1つの爆弾につき2つのパラシュートが付いているのが分かります。米軍が使用したパラシュート付き爆弾には種類があり、よく使用された500ポンドのパラフラッグ弾はパラシュートは4つだったようなので、このパラシュート付き爆弾はそれよりも小型の爆弾でしょうか。
パラシュート付き爆弾は日本本土では南九州地域でよく使用されました。
米軍撮影の串木野空襲ブログ用1

米軍撮影の串木野空襲ブログ用2
※古写真・米軍撮影による串木野空襲の写真4枚(昭和20年8月9日・12日)
現在のいちき串木野市の照島国民学校(現・照島小学校)付近に投下され炸裂するパラシュート付き爆弾。この写真の数コマ前の写真にはパラシュートが4つ付けられた爆弾の着弾直前の写真が写されています。

古写真・米軍撮影の筑波海軍航空基地偵察写真

筑波海軍航空基地ブログ用
※以下、サムネイル画像のクリックで拡大します。
米軍が撮影した筑波海軍航空基地の偵察写真です。筑波海軍航空基地は昭和13年に練習部隊である筑波海軍航空隊の基地として独立したのが始まりで、基地自体は昭和9年に完成していました。戦時中は本土防空部隊の基地として使用されました。
写真は昭和20年の初め頃に撮影されたものと思われる筑波海軍航空基地の偵察写真で、基地の施設や無蓋掩体壕等がはっきりと写っています。写真は上が南となります。
筑波海軍航空基地本部002
本部庁舎部分のアップ。中央部分が現在、筑波海軍航空隊記念館として現存している本部庁舎。格納庫も確認できます。
筑波海軍航空基地隊舎003
隊舎エリア?生垣に囲まれた中に建物が見えます。
筑波海軍航空基地東側掩体壕004
敷地東側の無蓋掩体壕群。機体が駐機している掩体壕も見られます。
筑波海軍航空基地西側掩体壕005
敷地西側の無蓋掩体壕群。こちらは元々あった森を切り開き、木々の中に隠すように造られています。
戦後、筑波海軍航空基地の跡地は住宅地や病院となりましたが、本部庁舎は筑波海軍航空隊記念館として保存されています。滑走路部分は現在も道路として残されていますが、無蓋掩体壕群は東側の部分はほとんど失われ、西側の掩体壕群が藪化した中にいくつか残されているようです。

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